Liberty without Learning is always in peril and Learning without Liberty is always in vain.

日本の禍機:学問を伴わぬ自由は危険であり、自由を伴わぬ学問は空虚である。

日本の禍機

コロナの蔓延、ウクライナ戦争・パレスチナ紛争といった事態により、この30年続いた「グローバリゼーション」の潮流は終焉を迎えたように見える。ハンチントン『文明の衝突』(集英社文庫、2017年)では、独自の文明とされた日本文明の行方はどうなるか?明治維新後、世界の帝国主義競争にデビューした日本が、最大の危機を迎えたのは日露戦争である(1904-1905年)。どう逆立ちしたって、ロシアに勝てそうもない。ポーツマス和平交渉では、日本代表の小村寿太郎外相が奮闘したものの(吉村昭『ポーツマスの旗』新潮文庫、1983年)、満州を支配地とすることや、賠償金の獲得は失敗し、マスコミはその無念を強調したため、日比谷焼き打ち事件を招来してしまった。

和平交渉が行われているポーツマスの地に、当時、イエール大学の法制史担当助教授となって間もない朝河貫一博士が、日本は正義のために戦争を余儀なくされたのであり、門戸開放・機会均等政策を維持することで、国際的な賛同が得られるとの趣旨を記載した英文パンフレットを、記者団に配布していた(清水美和『「驕る日本」と闘った男: 日露講和条約の舞台裏と朝河貫一』講談社、2005年)。この中で、朝河博士は、賠償金や領土に固執し、満州地域の支配を目指すと、将来、日本はアメリカと戦争になると警告していた。その内容は、” Some Issues of the Japanese-Russo Conflict” Yale Review 13号(1904)で詳述されている。『日本の禍機』(講談社学術文庫、1987年)は、朝河博士が一時帰国の際、これを日本語で再述したものである。

世界が混沌としていく状況で、良くも悪くも、日米関係は重要な役割を有することは避けられない。日本はどのようにアメリカと向き合うかについて、ポーツマス和平交渉における小村スタイルと朝河スタイルの違いは、好対照である。日本に破格の厚意を示したセオドア・ルーズベルトであったが、国際関係における冷徹な論理によって、小村外交は次第にアメリカの疑念を惹起し、韓国併合(1907年)・第一次大戦(1911-1914年)・対華21箇条(1915年)に至り、アメリカと決定的な亀裂を生ずるに至った。朝河博士が予言したとおりである。